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七万余坪在ったとされる境内地は、明治の上地令により激減したが、現在でも一万余坪在る境内地には樹齢五百年以上経つと伝えられる神木杉をはじめ様々な木々生物が生息している。神聖なる鎮守の杜を背に御社殿(本殿・幣殿・拝殿・翼殿)をはじめ、旧割拝殿、能舞台、社務所などの諸建造物が建つ。
当宮本殿は、慶長八年(西暦一六〇三年)姫路城主池田三左衛門輝政の命によって建てられた。建築当初は桧皮葺屋根であったが、昭和六十一年銅板葺屋根に修繕した。建築様式は、五間社、切妻造りで前面に二つの千鳥破風を備え、中央には唐破風向拝を備えている。
本殿前には、左右翼殿を伴う拝殿があり幣殿にて本殿と繋がっている。総床三百坪もの近隣稀に見る大きな社殿である。
延享四年(西暦一七四七年)から安永八年(西暦一七七九年)まで三十三年間この地の領主であった上野国館林城主従四位松平出羽守右近将監武元が老中職をしている宝暦六年(西暦一七三六年)に寄進されたものである。三代将軍家光以来、歴代将軍の朱印社領を安堵された大宮八幡宮へは、その故をもって武元はたびたび参使したと伝えられている。